長いメモ

 昨夜、風邪っぽいのをおして人と飲む。帰りがけに、腹がへっているような気がしてコンビニで蒙古タンメン中本のカップラーメンかなんか買おうかと思いつき、でもこの時間にラーメン食べるのもとも思い、散々迷い「じゃあ、中本のラーメンが置いてあったら買おう。無かったら何も買わずに帰ろう」とまで決め、コンビニまで入ってぐるっと見たら中本のラーメンが見事に置いてあり、がしかし、198円という値段を見た途端になんだか躊躇が生まれ、「やっぱやめとこ」とそのまま何も買わずに帰る。あったら買おうとあれほど決めていたのに。

諸君が二十世紀の都会の街路で、このような、うらないを、暮靄ひとめ避けつつ、ひそかに試みる場合、必ずしも律儀に三人目のひとを選ばずともよい。時に依っては、電柱を、ポストを、街路樹をそれぞれ一人に数え上げるがよい。キュウピッドの生れることは保証の限りでないけれども、ヴァルカン氏を得ることは確かである。(太宰治「懶惰の歌留多」)

そのせいか、今日はどうにも倦怠で仕方がない。5年以上着ている(これしか持っていない)冬のコートをクリーニングに出す代わりに自宅で洗濯機で回す。大丈夫。午睡のあと、つげ義春の『貧困旅行記』を寝ころんで読む。(先週のアド街が「富浦」だったことから、確かつげ義春の本の中に「ふっつ・とみうら」というエッセイがあったはずだと思い出して引っ張り出してきたのがきっかけだった。実際に確かめたら「ふっつ・とみうら」は川崎長太郎の作品の名前だった。)これを買ったのはもう9年前くらいか。その頃に読んだのとはだいぶ印象が、というよりは奥行きが異なって感じられる。

 それは昭和四十三年の初秋だった。行先は九州。住みつくつもりで九州を選んだのは、そこにわたしの結婚相手の女性がいたからだった。といっても私はこの女生と一面識もなかった。(中略)「ひどいブスだったら困るけど、少しくらいなら我慢しよう」と思った。とにかく結婚してしまえば、それが私を九州に拘束する理由になると考えたのだった。そしてマンガをやめ、適当な職業をみつけ、遠い九州でひっそり暮らそうと考えた。「離婚をした女なら気がらくだ」彼女はきっと結婚してくれるだろうと私は一人決めていた。(つげ義春『新版貧困旅行記』)

ここ最近の自分は、なんとか時流についていこう、遅れないようにしよう、自分の知識や見識を深めるような読書なり時間の使い方をしようと躍起になっていた気がする。twitter含めて。が、こうして、前に読んだことのある、特に新しい現在的な知識をもたらすとは思えないエッセイをなんとなく読んでみる。そんな「読書」が少なくとも今の自分には必要だったのではないかと気がつく。ホッとする。ホッとしついでにこれまたとっくにクリアしたことのあるFF5なんぞを始めてみる。半ば「うちゅうのほうそくがみだれる!」をもう一度体験したいがためだけに。そこまで辿り着くかは分からないが、そんな感じでしばらく呑気にやってみようと思う。