「不勉強」ということ

 引き続き調子が悪い。失踪(蒸発)のことをぼんやり考えながら二度寝から目を覚ます。今日は昼過ぎに実家から荷物が届くことになっていたので、それを受け取ってから昼食にしようと思っていたところ、一時半くらいに非通知から電話。荷物の集荷場への到着が遅れたため配達も遅れるとのこと。結局届いたのが三時過ぎ。湯を沸かし、五年前くらいに友人から貰った烏龍茶(たぶん高級)を淹れて飲む。悪くはなっていないようだ。
 荷物の到着が遅れたおかげで昼寝はできず、夕方から白山へ。初めて行く町。雰囲気のある喫茶店で酒乱シンポジウム。どうやら部外者はほぼ自分一人。入ったら座る席が見当たらなくてあわあわしてしまうし。座談会は興味深かったが、なにしろ不勉強というか自分が詩に関心を持ち始めたのがわりと最近だし、しかもそれほど真剣に過去の作品などにあたっていないため、固有名詞でわからんこと多数。さすがにマイクを回されることはなくてホッとしたけれど、ど素人なりに思ったこともあるので書いてみる。金子さんの「勝手にしろ」という言葉はすごく共感できる、というかわかる。金子さんはあの場ではそれでも歴史を学ぶことの必要性に言及していたけれど、実はそれすらほんとは必要ではないのではないかと思う。森川さんの、俳句や短歌だったら間違いなく指摘される、というような安易な語句の使い方という場合も、むしろそれが口語自由詩の優位点とも考えられないだろうか。つまり、もっと身も蓋も無い意味で「なんでもあり」だということ。多様性という言葉が出てきたけれど、いまや現代詩という「きわめて高度化したゲーム」の中でもゲームボード自体が多様化していて、といことはルールそのものが多様化しているということでもあって、従来の「現代詩クラスタ」的なルールで判定不可能な詩というのも確実に生まれている、というよりも原理的に生まれているはずである。洗練された理論から見れば片腹痛いようなフレーズもルールや価値基準が異なればそもそも判断そのものが不可能なのだ。ベースボールの見方でキックベースを論じようと思ってもそれは徒労かもしくはナンセンスである。金子さんの言う「勝手」には実はそこんところへの許容も含まれているのではないかと感じたのであった。もうひとつ私性の問題は、正直自分でもよくわからん。少し違うが、確かに「我々」はなくなったけれど、「俺ら」はまだ有効であるように感じる。むしろ求心力を増しているような気もする。良いか悪いかは別にして。そんなことを考えて、もちろん二次会は出ずに帰る。学生時代にお世話になった野村先生には挨拶をする機会を逸する。またいずれ出会えるはず、という淡い期待を抱いておこう。
 帰宅したらtvkが映らない。