仮説A

 前々から思っていた「ケータイで写真を撮る(撮られる)行為はなぜあれほどまでに不遜なのだろうか?」という疑問。これまではただ単に「お手軽感」「撮る手が片手だから」「フィルムカメラと異なりいくらでも撮り直しがきくから」と考えていたのですが、今日のごきげんようでぐっさんの話を聞いていてふと浮かんだ考えというのがつまり「撮影者の視線の問題」なのではないかと。通常のカメラであれば撮影者はカメラのファインダーを覗くという都合上その表情、特に視線はカメラ本体に隠されて被撮影者(撮られる側)からは見えません。かつ、カメラの構造上、被撮影者にとって撮影者の視線はカメラのレンズに同化されます。つまり撮影者の視線がばっちり撮られる側に向いているということです。それに対して、ケータイはその大きさとレンズにおけるディスプレイの配置のために、被撮影者から撮影者の顔はばっちり丸見えであることが普通です。しかも、撮影者は当然ながらケータイのディスプレイを見ながら構図の調整・撮影を行うという点から、その視線は被撮影者ではなくディスプレイの方に集中されます。(特に素人であれば機能的問題からケータイのディスプレイへの集中度は増します。)結果、その表情が見えている被撮影者にとっては「せっかく撮るんだったらこっち向かんかい!」という苛立ちの気分が生じるのです。私はこうした心理学的見地には全くの無知なのですが、そういうのがあると思うんだけれどどんなもんでしょうか?
 例によって全然関係ないけど、菊地成孔は自身でものまね芸人のホリに似てると言っていましたが、私が思う限り大森うたえもんに似ている(いまの雰囲気も含め)のではないかと思います。