ヒミズ

 桜木町で映画「ヒミズ」観る。冒頭の被災地(でしょうよね?)のシーンから、ああこうなんのか、と思う。そして話には聞いていたラスト、原作と全然違うラスト。箇条書き程度にメモをしておく。古谷実の『ヒミズ』は「そうなった理由」を見せないマンガだった。象徴的なのが茶沢さんの住田への異常な愛情。そこまでする理由が解からない。そして、まったく酌量の余地の無い「クズ」の描き方。主人公の死と「決まっていた」という言葉。因果ではない。もうどうしようもない、そのどうしようもなさ。それが凄みだった。が、一方、映画の「ヒミズ」は理由を提示する。原作よりもいっそう狂った愛情を見せる茶沢さんに、原作にはなかった家族関係が描かれる。観ている者は「ああ、だからか」と狂気の理由を知ってホッとする。そして、震災という「原因」。原因が解かったからこそ生まれる、それを乗り越えていこうという希望。で、一歩を踏み出したあのラスト。どちらが良いか、表現として優れているかはどうもわからない。もちろんマンガと映画、震災以前と以後という違いはある。ただ、僕は理由が解からない、理由なんて無いという凄みの方により心を動かされてしまうようだ。
 帰ってきてから群像で舞城王太郎の短編を読む。偶然というべきか「美しい馬の地」という作品の中に(原作でもわざわざ太字で)こんな言葉。

 衝動に根拠とか理由とかないから。まったくのゼロからいきなりポンと生まれて人をぐいぐい動かしちゃうのが衝動ってもんだよ。

あらためて言うが、理由を突き止めようという意思は尊い。そこに罪は無い。だが。