「場」も「空気」も本来「読む」ものではない

 昨日から開催している「日常/場違い」という展覧会に行ってきました(@神奈川県民ホールギャラリー)。たまたま今日Übungsplatzさん(http://d.hatena.ne.jp/n-291/)で見つけて、たまたま休日だったし天気も良かったし定期券で行ける距離だしということで、それほどの期待も事前の知識もなく足を運んだのですが、行って正解ではあったかなと。以下、とりとめのない感想の断片。
 まず結論か言ってしまうと、これは明らかに「神奈川県民ホール」という「場」でこうした「現代アート」の展覧会が行われるということ、それ自体の「場違い」感を意図したものだろうなと。靴を脱いでダンボールの中に一人ずつ潜り込むなどインスタレーション的要素の強い木村氏の作品に、というよりもその場にいた係員(っていうのでしょうか、あのイスに座っている人。しかもあの年配の女性はたぶん展示にはそんなに関わっていないホール関係者ではないかと思うのですが)が、潜っていた僕がダンボールからひょいと顔をのぞかせたときに見せたあのなんともいえない苦笑に、その意図が明らかだったように思います。さらに、(つまんないネタバレになりますが)アンケート用紙に「自分の夢」を書かせて係員さんに促されるまま箱に入れると即シュレッダーで粉砕されるという作品で、やはり僕が用紙を粉砕されると「…あの、こういう作品なので…」と申し訳無さそうに困った笑顔を作るあの係員さんこそがこの展覧会の最高の「作品」なのだろうなと。
 他の作品を観て感じたのは、そもそも「場違い」を作品化しようと思ったら、佐藤恵子氏のようにベタに違和感に内在する美に焦点を絞るか、もしくは多くの出品者のように「場違い感」そのものをネタ的に扱うかのどちらかだと思うのですが、後者のように「場違い」をネタにしてしまった瞬間にそれをネタとして享受する姿勢(空気を読むこと)が要請され、「これって場違いだよね」という前提が共有される、ということはもともと「場違い」であったものが即座に逆転してその場にいる全員の合意の上でのネタとして現れてしまう。ということにさらになんらかのかたちで「場違い」を持ち込むと、さらにそれが……、みたいなことになって、そもそも「場違い」を作品化することなど出来ないのではないかなと。その意味で佐藤氏のキラキラしたガラス片を用いた展示は別の意味があったのではないかと思います。
 全体的なボリュームはやや小さく感じたのですが、それもあのホールならしょうがないかなと。ただチケットと一緒に渡されるプリントだけではなく作品の近くに作者と作品名の提示はちょっと欲しかったかな。けどまあ散歩がてらに立ち寄るには満足だったし、県民ホールを利用して「アート」をそれほど親しみがない層に紹介するにはとても面白い展覧会だと思いました。

日常 場違い http://www.bachigai.info/