ヨコハマトリエンナーレ@横浜美術館・新港ぴあ

 昨日飲んで帰ったにも関わらずわりと早起きをしたので、横浜トリエンナーレへ。今回は事前に聞く評判などが一切なく、果たして今回って盛り上がってんの?的な疑問がかなりあり、期待半分不安半分で出掛けたのでした。が、いろいろ周るつもりでまず訪れた横浜美術館、その入り口の作品からもう「ああ、なるほど」となにか納得した感じ。学生風情の団体が楽しそうに作品の前でポーズをとって写真を撮っている。入場するやリュックを背負った小学生の群れ。オノヨーコ作品の中ではしゃぐ子どもたち。「現代アート」の展示として当展示をどう評価すべきかは僕には分からないのですが(いや、はっきりいってアウトな気がする)、でも、ヨコハマトリエンナーレとして、これはたいそう素晴らしい展示なのではないかと。個人的に心に残っている作品もいくつかあるけれども(特に田中功起の空間とミルチャ・カントルの一枚の写真、八木良太の作品はグッときた)、全体としてこれは「正しい」ものなのではないかと。幸福であった。ふと、「311以後」なんて言葉が頭をよぎる。
 足を伸ばして新港ピアの「新・港村」展へ。こっちははっきりいってどうでも良かった。ていうか雑すぎるだろうと。明らかに途中であり、無駄にエネルギッシュで、だから散漫で、いやに青く、要するにがっかりだった。途中ってことは今後変わるのかもしれないけれど、たぶんもう行かないだろう。
 会場を出ると思いっきり雨模様。洗濯物が干しっぱなしである。急いで帰るけれども間に合わず、どころか豪雨。あきらめて傘を買って帰り、洗濯物を取り込むや直で洗濯機へ再投入。すすぎ直して部屋干し。明日までに乾くのかどうか。
 傘と同時に電池を購入。ひょっとしたら11年前に買ってから初めてテレビのリモコンの電池を替える。時計の電池も替える。驚くべき快適さ。
 ひるがえって昨日の話。OさんとIさんと飲む。Oさんとは本日が共に出勤する最後の日。平和に飲む。その前に、待ち時間で新潮9月号、円城塔「良い夜を持っている」読了。円城氏の作品でこれほど情緒的に感動するとは思わなかった。今年読んだ(&これから読む)中で間違いなく五本の指に入るであろう小説。あと何度か読みたい。誕生日だったので二人からプレゼントを貰う。Kさんからも貰う。そしてその前日、Aさんからも貰う。客観的には幸せなんだろうと思う。ということは、とりもなおさず自分は幸せものだということである。